10.阿鼻叫喚
「漢王朝が400年、すべてワシが喰ろうてやろう」
(董卓おじいさまのフレーバーテキストから抜粋)
洛陽における董卓おじいさまの権威は絶対的な物でした。
とはいえ、その権威は軍事力に依存した"恐怖"に基づいていました。
その一例が、董卓おじいさまが陽人で行った虐殺です。
ある時、陽人の住人達が二月の春の祭りを催すため、社に集まっていました。
董卓おじいさまは軍勢を率いて赴くと、住人達を突如捕らえ、問答無用で男達を斬首しました。
そして女達と財産を、奪った車や牛に乗せて洛陽に上洛したのです。
斬首された男達の首も一緒です。
彼らが運んできた車の轅にぶら下げられていたのです。
董卓おじいさまは「国賊を討ち、その財物を取り上げた」と言いふらし、万歳を唱えさせました。
街へ着くと、首を全て火の中に放り込み、拉致してきた女達を兵士達に下女や妾として与えてしまったそうです。
また、帯剣したまま現われたという理由だけで侍御史の擾龍宗を撲殺したため、人々は恐怖したと言います。
董卓おじいさまは恐怖こそ他者を支配できる手段だと考えていたのでしょう。
住人からの略奪行為も、自身の力の象徴である軍隊の士気向上と軍費調達のためだったのかもしれません。
勿論、許される行為といえませんが、同時に董卓おじいさまの考え方を窺える一件でもあります。
また、この様な暴挙に出ても誰も諌められない程の力を備えていたと言えます。
陽人だけでなく、洛陽の市街でも略奪行為は頻繁に起きていました。
治安を維持すべき執金吾・丁原は既に亡く、呂布は董卓おじいさまの側について傍観していたため、誰にもこれを取り除く事が出来なかったのです。
特に私財を蓄え、多くの美女を囲っていた貴族達が甚大な被害を被ったと言われています。
董卓おじいさまの武力による専横は、次第に洛陽を阿鼻叫喚の地獄へと変貌させていきました。
その矛先は、民草だけでなく、官位に関係なく向けられます。
先の少帝は何太后の死後、幽閉されて既に何の力も持っていませんでした。
ですが、董卓おじいさまは遺恨断つべしという李儒の献策を受け入れました。
酒に含ませた毒薬を持って、李儒は少帝の下に赴くと、これを奨めます。
李儒の思惑を悟った少帝はこれを拒絶しますが、李儒が
「では縄で絞め殺されるのが良いですか、剣で刺し殺されるのが良いですか」
と脅して来たので、已む無く寵愛していた唐姫と共に服毒、十八歳で死去しました。
洛陽での董卓おじいさまの権力は留まる事を知りません。
しかし、それは同時に董卓おじいさまの敵対者を増やす事につながっていくのでした……